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2018年5月16日 (水)

愚痴る

 昨日は午後休んで、図書館に本を返しに行き、その足でいつもの脳病院に行った。借りていた本の返却期限が一週間も過ぎてしまい、督促メールがきた。日ノ出町にあるこの図書館からは、長男、次男ともに督促メールが届いている。借りたものは返せ、と言っていた自分が同様のザマになってしまった。名前が珍しいので、担当者には一家そろって目を付けられているのではないかと家人が指摘していた。
 北久里浜の脳病院は特に変わりなし。いつもと違う先生であった。診療終了後は、歩いて横須賀中央駅まででる。途中ブックオフに寄るが、特にほしいものはなかった。小泉純一郎邸の裏道を通る。警護の警官はいなかった。詰所みたいなのがなくなっているように見える。小松という先日燃えた有名な料亭跡も通る。木の塀だけが残っている。消防署の隣なのに燃え落ちてしまったこの料亭は、海軍の御用達であったらしい。
 今朝はなんだか足がだるかったが、昨日図書館で五階まで登ったせいであろう。今日からはいよいよ『イデーン』第三巻に入る。ほとんど読む気力が失せている。昨日、病院に行く途中の電車で第二巻第二分冊を読んでいたが、猛烈な眠気に襲われた。
 この巻の最後に、説明と記述についてのフッセルの見解がでてきた。もちろん現象学は記述的であって、科学論文のように因果関係を説明はしない。一見似ているようにみえる、この記述の言説と説明の言説だが、実は違うとフッセルは言っている。もっとも、人がものを直感する際も、何らかの了解が働ているわけだから、記述といえどもこの因果に似た了解は避けられない。さもなければ、言説自体が成立しない。その辺はフッセルもわかっている。猛烈に眠くなるのは、この記述への信念のせいであろうか。
 でもこれは描写とは違う。描写では、対象が語る主体から分離されたものとして考えられている。現象学の記述は、意識が志向している状態と、その志向する物との相関においてあるので、対象物を観察しただけのものとはおのずと違ってくるのであろう。ここでは、それをみている意識をさらに中立変様して、カッコに入れた状態で記述される。だからなんなの? と突っ込むのは野暮だ。
 詩にとってもこの現象学的記述の考えは参考になるのではないかと思うが、だからといってえんえんとこの記述をやられたらたまったものではない。なぜたまったものではない、と感じるのか、というところに当方が詩に配当している魂の様相がある。長い詩が多いよね、という話は、飲み会などでよくでる。現代詩は少し長すぎる、と思っている人が多いのであろう。なぜ長い、と思うのであろうか。記述になっているからだろうか。もちろん、やたらと説明されるのもうっとうしい。記述も説明も嫌だとしたら、当方においての詩の言説は、一体なにになるのであるか。われながら、ただ愚痴を言っているようにも思える。

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